
さて、とりあえず購入した本のうち、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読み終えた。(1/4現在)
全353ページ中300ページまでただただ退屈なだけだった
「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルは聞き知っていたが、内容はまったく知らなかった。
どうせ「アメリカアメリカ」した内容なんだろうと敬遠していたのだが、
村上春樹の翻訳に期待したのだ。
アメリカ人の明朗快活アメリカアメリカした思想を、
日本人の思慮遠慮細々とした、
言い換えればネチネチと陰険で果てしなく回りくどい村上春樹調に変えてくれると期待したのだ。
期待は空しくも裏切られた。
もう、主人公がまずアメリカアメリカしていて取っつけない。
それで文章は主人公の一人称視点だからたまらない。(そこが売りらしいのだが)
「なあ、聞いてくれよ、オレの友達なんだけどさ、これがひどいんだぜ。
オレはそんなこと1つも聞きたくないのに、
どうでもいい自分のことばかりオレにいちいち話して聞かせるんだ。
もううんざりだぜ、ベイビー」
みたいな。
もう、ギャル風に、みたいなぁ~。
この主人公、どうでもいい自分のことばかりいちいち話して聞かせてくる。
もううんざりだぜ。
「自分」に関する描写だけで文章の9割を構成している。(いや、そこが売りなのだけど)
節目節目には必ず、
「なあ、君もそう思うだろ?」
的な同意を求める文章を挟んでくる。(それが売りなんだよ)
どっと疲れる。
「なあ、君も星条旗が大好きなんだろ?」
ああ、やっぱり「アメリカアメリカ」した本なんて読むもんじゃないな、としみじみ思った。
そう思わせることが村上春樹の狙いならたいしたものだが。
仮に「アメリカアメリカ」していなくても、
元々こういうウェストサイドストーリー風「イエス!青春だぜ!!イエス!!」みたいな話は吐き気がするのだ。
このテのストーリーなら、宮本輝とかのほうが適任だったろうに。
この本と一緒に購入したフィル・コリンズのライブ盤を聞きながらだったため、
余計に「アメリカアメリカ」してしまって、
危うくフィル・コリンズまで嫌いになってしまうところだった。
簡単に言えば、
尾崎豊の曲や歌詞に共感できる人は読めばいいんじゃね?ということだ。
健全な思春期はこうでなきゃならない、という思想のようなものだ。
それが村上訳のおかげで、主人公がただの根暗のいけ好かないオタク少年になっているだけだ。
そして最後の一文。
「本書には訳者の解説が加えられる予定でしたが、原著者の要請により、また契約の条項に基づき、
それが不可能になりました。残念ですが、ご理解いただければ幸甚です。」
最後まで「アメリカアメリカ」してやがる。
こんな本、某氏のように、駅のゴミ箱にでも叩き込んだらさぞ気分がいいだろうな、と思った。
機会があればやってやろうと、本気で思う。